\鋼鉄の品質管理・日本刀など文化財の非破壊分析も/
鋼鉄中のわずかな炭素を素粒子で透視する- ミュオンによる新しい非破壊微量軽元素分析法の開発 -
大阪大学
国際基督教大学
京都大学
高エネルギー加速器研究機構
日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
国立歴史民俗博物館
研究成果のポイント
✣ 素粒子ミュオン※1の寿命測定により鋼鉄中の微量な炭素を非破壊で分析する新たな技術を開発
✣ 鋼鉄の品質管理や日本刀などの鋼鉄製文化財の分析への応用研究が期待される
✣ 物質中の炭素以外の微量な軽元素への新たな分析法開発につながる
概要
大阪大学放射線科学基盤機構附属ラジオアイソトープ総合センターの二宮和彦准教授、国際基督教大学の久保謙哉教授、京都大学複合原子力研究所の稲垣誠特定助教、高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所の下村浩一郎教授、日本原子力研究開発機構先端基礎研究センターの髭本亘研究主幹、国立歴史民俗博物館の齋藤努教授らの研究グループは、量子ビーム※2の一つであるミュオンを用いて、鋼鉄中に含まれる微量な炭素を非破壊で定量する方法を開発しました。
図1:本研究成果の概要。ミュオンビームを鋼鉄に打ち込み、鋼鉄に含まれている微量な炭素に由来する電子を検出する(左)。電子のシグナル強度から、炭素を定量する(右)。右図の横軸はマイクロ秒(100万分の1秒)単位
鋼鉄中の炭素は、鋼鉄の性質を決める重要な元素ですが、その分析は化学処理を伴う破壊的な方法で行われています。今回、研究グループは、大強度陽子加速器施設J-PARC物質・生命科学実験施設(MLF)ミュオン科学実験施設(MUSE)※3から得られる世界最高強度のミュオンビームを利用して、鋼鉄内部の微量の炭素を、位置選択的かつ非破壊で分析することに世界で初めて成功しました。物質中に捕らえられたミュオンの寿命は、捕らえた元素によって変化します。この性質を巧みに利用することで、鋼鉄に微量に含まれる炭素の量を感度良く検出することができるようになりました。
本研究の成果は、人類にとって最も重要な物質の一つである鋼鉄の品質管理にミュオン分析という新たな選択肢を与えるとともに、文化財などの貴重資料に新たな分析法を提供するものです。例えば日本刀は、鋼鉄でできていますが、その製法は地域や時代によって異なっており、炭素の存在量を調べることは、失われた製法を再現する上で重要な情報を与えます。このように本研究の成果は、ミュオン利用の新たな可能性を拓くものとなります。
本研究成果は、英国科学誌「Scientific Reports」に、2024年1月20日(土)(英国時間)に公開されました。
研究の背景
鋼鉄(鉄)は、古くから使用されてきた材料であり、現在の我々の生活を支えている最も重要な物質の一つです。鋼鉄の主成分は鉄(元素記号Fe、原子番号26番)であり、そこに様々な元素を添加することで、硬さなどの特性を制御することができます。このように、ひとことで鋼鉄と言っても様々で、その組成を制御して使用目的に合致した性質を持つものを作りだし利用しています。鋼鉄の性質を制御する元素のうち、炭素(元素記号C、原子番号6番)は特に重要な役割を果たします。炭素は鋼鉄中に2%未満程度の低い濃度で含まれており、多く含まれている場合は硬いが欠けやすく、少ない場合は柔らかいが加工しやすいといった特性を与えます。
炭素の量を知ることは鋼鉄の特性を知るうえで重要ですが、試料を損ねることなく、非破壊かつ非接触で炭素を分析することはできませんでした。非破壊分析でよく利用される蛍光X線分析法※4は、炭素のような軽い原子の分析には適しておらず、また表面を分析することしかできません。現在最も利用されている鋼鉄中の炭素の分析法は、鋼鉄を燃やして内部に含まれている炭素を二酸化炭素に化学変化させて測定するものです。しかし微量な炭素の分析では鋼鉄表面に付着した汚れの影響を受けることがあり、分析には専門的な技術を要します。また、このような破壊的な分析方法は、鋼鉄の性質を調べる基礎研究では利用できますが、例えば文化財などの貴重な対象には適用できないという問題がありました。
研究の内容
研究グループは、ミュオンを利用することで、これまでとは全く異なる原理に基づく鋼鉄中の微量な炭素の分析法を開発しました。ミュオンは量子ビームの一つとして利用が進んでおり、その性質として電子と同じ電荷と、電子の207倍の質量をもっています。またミュオンは、2.2マイクロ秒(100万分の2.2秒)という短い寿命で崩壊して電子になります。研究グループは、これまでもミュオンを物質に打ち込むことで放出される、ミュオン特性X線※5を用いた、文化財や地球外試料の非破壊の元素分析を報告してきましたが、今回はミュオンの持つ異なる側面に注目した新たな分析法の開発に成功しました。
ミュオンを物質に打ち込み停止させると、ミュオンは物質中の原子に捕獲されてミュオン原子と呼ばれる奇妙な原子を形成します。ミュオンが電子に崩壊する過程は、ミュオン原子を形成した後のミュオンが原子核に吸収される反応と競合しており、ミュオンがどの原子に捕獲されたかによって見かけの寿命が異なることが知られています。例えば鉄に捕獲された場合は200ナノ秒(100万分の0.2秒)であり、炭素に捕獲された場合は2マイクロ秒(100万分の2秒)となります。研究グループは、ミュオンの寿命が原子に固有であることに注目し、ミュオンが崩壊して発する電子の測定から物質中の元素組成の情報が得られる、すなわち元素分析ができるという新たな着想を得ました。
図2:測定の様子。μSR法のために整備されていた電子検出器を用いてミュオンの寿命を測定した
この新しい元素分析法の実証のために、J-PARC MUSEの大強度のミュオンビームが利用されました。MUSEにはμSR法※6のために開発された電子検出システムがあり、その検出器をそのまま使用して実験が行われました。図3には実験で得られたミュオンの寿命スペクトルが示されています。すぐに減衰する鉄に由来するシグナルに加えて、炭素に由来するシグナルが観測されています。重要なことは、主成分であり高い強度の鉄のシグナルが短い寿命でなくなり、微量な成分である寿命の長い炭素のシグナルが遅い時間領域で明確に現れてくることです。
図3:炭素0.42%を含む鋼鉄から得られたミュオンの寿命スペクトル。スペクトルをフィッティングすることで、鋼鉄中の炭素に由来するシグナル強度を決定した
研究グループは、まず分析法の実証のために組成の分かっている鋼鉄を利用して、鋼鉄中の炭素濃度とミュオンの寿命測定から得られるシグナル強度の関係を調べました(図4)。炭素濃度とミュオンによるシグナル強度の間には、きれいな直線関係があることが分かり、ミュオンの分析により微量な炭素が定量分析できることが示されました。また、この関係から炭素の検出下限濃度は140ppm(100万分の140)であると見積もられました。今回の実験では、別の用途のために整備されていた検出システムを流用しており、今後専用の測定システムを開発することでより微量な炭素についても分析できることが期待されます。
図4:鋼鉄中の炭素含有量と、ミュオンで分析した鉄(Fe)と炭素(C)のシグナル強度比の関係(検量線)。この直線関係より、ミュオンによる分析値を炭素濃度に換算する
次に、非破壊で位置(深さ)選択的な分析が可能であるかが調べられました。ミュオンは透過力の高い量子ビームであり、エネルギーに応じて物質中で止める深さ、すなわち分析する深さを制御することができます。今回、図5に示すように3種類の異なる鋼鉄を重ね合わせた積層試料に、それぞれの層の中心にミュオンが停止するようなエネルギーでミュオンを打ちこんでミュオンの寿命スペクトルを取得しました。先に得た図4の関係を利用することでそれぞれのエネルギーごとの炭素分析値を求めたところ、破壊分析により調べた炭素含有量と一致し、今回の分析において積層試料の層ごとに選択的にミュオンを止め、分析できていることが確認できました。
図5:積層鋼鉄試料へのミュオンによる非破壊深さ選択分析実験の概要と結果
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究成果により、ミュオンを利用すると鋼鉄中に含まれる1%未満(現在の検出限界は140ppm=0.014%)の炭素を非破壊で定量することが可能であることが分かりました。今後の研究開発によりさらに微量の炭素の分析が可能になると期待され、本分析手法はこれまで破壊的な分析が使われてきた炭素分析に新たな選択肢を与えるものになります。これにより本研究成果は鋼鉄の品質管理だけでなく、日本刀などの貴重な文化財への適用が期待されます。また、本手法は原理的には鋼鉄中の炭素の分析以外にも適用可能で、金属中の酸素の分析など、様々な応用的な手法の展開が期待されます。
特記事項
用語説明
※1.ミュオン
素粒子の一つ。ミューオン、ミュー(μ)粒子ともいう。電子の約200 倍の質量をもつ素粒子であり、電子と同じ大きさの電荷をもつ。加速器で大量に作ることができ、様々な研究で利用されている素粒子であり、基礎研究だけでなく非破壊元素分析などの応用分野での利用も近年進んでいる。
※2. 量子ビーム
原子や分子などの極めて小さい対象の様々な性質を解き明かすために利用されている最新技術の一つ。ミュオンの他には、放射光、中性子、低速陽電子が挙げられ、加速器などを利用して作り出したこれらの粒子を、細く、平行で大強度の流れ(ビーム)にしたもの。
※3. ミュオン科学実験施設(MUSE)
茨城県の東海村に設置された大強度陽子加速器施設J-PARC物質・生命科学実験施設(MLF) 内のミュオン施設。J-PARCは高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が茨城県の東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。MUSEは世界最高強度のパルス状のミュオンビームが利用できる。MLFでは他に中性子ビームを用いた研究も行われている。
※4.蛍光X線分析法
物質にX線を照射することで、物質中の原子がエネルギーを得てその元素に固有のエネルギーを持つ特性X線が発生する。この特性X線の強度を測定することで、対象物質の構成元素とその割合を求める測定手法。卓上の装置で非破壊分析が可能なことから、広い分野で利用されている。しかし基本的に試料表面しか分析できない、炭素などの軽い元素は分析が難しいといった制限もある。
※5.ミュオン特性X線
負の電荷を持つミュオンは、電子よりも原子核の近くに原子軌道を作るときにX線を放射する。このX線は原子から放射される電子による特性X線と区別するためにミュオン特性X線と呼ばれる。ミュオン特性X線は元素に固有のエネルギーを持つために、エネルギーの測定から元素の特定、定量ができる。さらにミュオン特性X線は、高いエネルギーを持つために物質の透過能が高く、物質内部の元素を非破壊で調べることができる。大阪大学では、これまでミュオン元素分析研究において、世界をリードする成果をあげている。関連する研究として以下のものがある。
※6.μSR法
ミュオンスピン回転・緩和・共鳴(Muon Spin Rotation,Relaxation,Resonance)法のこと。ミュオンはスピンをもつためミュオンを小さな磁石とみなして、そのスピンの向きから物質中の微小な磁場などを調べる物質研究の方法。μSR法では電子を検出するため、本研究の測定においても同じ装置が利用できた。
二宮准教授のコメント
鋼鉄は我々にとって大変重要な物質です。その物質特性に大きく影響する炭素量を非破壊で分析することができるこの方法は、基礎研究にはとどまらない広い応用が期待できます。今回はミュオンの持つこれまであまり注目されていなかった性質を使って新しい分析法を開発したもので、日本が得意とする量子ビームの研究分野をますます発展させることに寄与できると考えています。
参考URL
二宮和彦准教授
研究者総覧URL:https://rd.iai.osaka-u.ac.jp/ja/3701ebce92e1397c.html