プレスリリース

2023.12.28

ミュオニックヘリウム原子を使った物理学の基本定理の検証に向けた第一歩- 40年ぶりに世界記録を更新 -

高エネルギー加速器研究機構
J-PARCセンター
東海国立大学機構 名古屋大学
東京大学 大学院理学系研究科

研究成果のポイント(ストーリー)

  - Question -
✣ ヘリウム原子の持つ2つの電子のうち1つを電子に似た素粒子であるミュオンに置き換えると、ミュオニックヘリウム原子と呼ばれる特殊な原子を生成できます。様々な周波数のマイクロ波とミュオニックヘリウム原子の反応を精密に調べると、ミュオンの質量の決定や、「CPT定理」と呼ばれる物理学の根幹をなす法則の検証ができます。しかしそのためにはこれまでの測定精度を100倍以上改善する必要があります。
  - Findings -
✣ J-PARC MUSE Dラインを使用した実験によって、基底状態のミュオニックヘリウム原子のエネルギー構造についての測定精度を世界記録から1.5倍更新しました。この結果は我々が、J-PARCでミュオニックヘリウム原子のエネルギー構造を測定する手法を確立したことを意味します。
  - Meaning -
✣ 今回の手法は近年運用を開始した、Dラインの約10倍のビーム強度を持つHラインでも使用可能です。今回の結果から、Hラインを使用した実験で物理学の根幹をなす法則を検証する見通しが立ちました。

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図1:J-PARC MLF MUSEのD2実験エリアに設置された実験装置

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図2:組み立て中の実験装置を真上から見た図

120文字サマリー

  J-PARCの施設を使用し、ミュオニックヘリウム原子のエネルギー構造の測定精度を世界記録から1.5倍向上しました。この手法はビーム強度がより高く超伝導磁石を使用可能なラインでも使用でき、物理学の根幹をなす法則の検証やミュオン質量の決定が期待できます。

概要

  ヘリウム原子の持つ2つの電子のうち1つをミュオン※1に置き換えたミュオニックヘリウム原子は、自然界に存在しない特殊な原子です。ミュオニックヘリウム原子の超微細構造※2を精密に測定することで、負の電荷を持つミュオンの質量の決定や、素粒子基礎理論の検証が可能です。ミュオニックヘリウム原子の超微細構造は1980年代にスイスのポール・シェラー研究所とアメリカのロスアラモス国立研究所でそれぞれ測定されて以降、これまで測定されていませんでした。

  今回我々は、茨城県東海村にある大強度陽子加速器施設(J-PARC ※3)物質・生命科学実験施設(MLF)のミュオン科学実験施設(MUSE)Dラインを使ってミュオニックヘリウム原子の超微細構造を、現在の世界記録の1.5倍の精度で測定しました。この結果は我々がパルスミュオンを利用した高精度な測定手法を世界で初めて確立したことを意味します。この手法はDラインの約10倍のビーム強度を持つHラインでも使用可能であり、超微細構造の測定精度はビーム強度と測定時間によって向上することから、今回の成果によって測定精度をさらに100倍向上し、負の電荷を持つミュオンの質量をより正確に決定するとともに、他の実験結果と組み合わせて物理学の根幹をなす法則「CPT定理※4」を検証する見通しが立ったと言えます。

※1.ミュオン
  素粒子の一種で、電子に似た性質を持つが、電子の約200倍の質量を持つ粒子。正の電荷をもつものと負の電荷を持つものの両方が存在する。私たちの身の回りに自然に存在していて、宇宙線として宇宙から地球に降り注いでいる。ただし、非常に短い時間(約2マイクロ秒)で崩壊してしまう。電子が原子核の周りを回っているのと同様に、ミュオンも原子核の周りを回ることができる。負電荷のミュオンが電子の代わりに原子核の周りを回っている原子は「ミュオニック原子」と呼ばれ、ミュオンが電子より重いために普通の原子と異なる特性を持つ。

※2. 超微細構造
  原子の周りの電子が持ちうるエネルギーは決まっているが、同じ軌道にある電子でもわずかに異なるエネルギーを持つことがある。これは電子の持つ「スピン」と原子核のもつ磁場の相互作用により生じるもので、この微細なエネルギー構造を「微細構造」と呼ぶ。微細構造をさらに詳しくみると、電子のスピンと原子核のスピンの相互作用によって生じるより細かなエネルギー構造が存在する。これを「超微細構造」と呼ぶ。超微細構造は、現在1秒を定義しているセシウム原子時計の原理にも利用されている。

※3. J-PARC
  高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。

※4.CPT定理
  物質と反物質を入れ替える「C変換 (荷電共役変換)」、左右を反転させる「P反転 (パリティ反転)」、時間を逆に進める「T反転 (時間反転)」という3つの操作を同時に行った場合、すべての物理現象は変化しないという定理。この場合、どんな粒子とその反粒子も同じ質量、同じ磁気モーメント(符号は逆)、同じ寿命を持たなければならない。

研究グループ

高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所(IMSS)
ミュオン科学研究系
atrick Strasser講師, 岩井 遼斗 特別研究員, 神田 聡太郎 助教, 西村 昇一郎 特別助教, 下村 浩一郎 教授
名古屋大学 理学部物理学科 素粒子物性研究室(Φ研) 福村 省三(大学院生), 河村 しほり(大学院生), 北口 雅暁 准教授, 清水 裕彦 教授, 多田 紘規(大学院生)
東京大学 大学院理学系研究科 鳥居 寛之 准教授
東京大学 大学院総合文化系研究科 瀬尾 俊(大学院生)

研究者からひとこと

  科学的進歩を達成し、刺激的で新しいフロンティアに到達するのに、優れたチームワーク以上のものはありません。

なぜこの研究を始めたのですか

  ミュオニックヘリウム原子の超微細構造は、精密に測定することで基本物理定数※5の一つである負の電荷を持ったミュオンの質量を決定できるほか、理論的な予測値と比較することで現在の素粒子物理学を検証できます。しかし1980年代に測定されて以降、これまでミュオニックヘリウム原子の超微細構造を精密に測定した例はありませんでした。
  これに対し近年J-PARCで進行しているMuSEUM実験グループ※6の技術を応用すれば、ミュオニックヘリウム原子の超微細構造を最大で現在の100倍近い精度で測定できる可能性があるとわかり、この研究が始まりました。

※5.基本物理定数
  自然界の基本的な性質を表し、宇宙全体で変わらないと考えられている普遍的な定数。

※6.MuSEUM実験グループ
  プラスの電荷を持つミュオンの周りを電子が回っている、ミュオニウムという特殊な原子のエネルギー構造を調べている実験グループ。ミュオニウムも自然界には存在しない。

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図3:ミュオニウム原子(左)とミュオニックヘリウム原子(右)の模式図

ひらめいたところはどこですか

  ミュオニックヘリウム原子を利用して負電荷のミュオンの質量を精密に決定すれば、正に荷電したミューオン(反粒子)の質量に関する他の実験結果と組み合わせて物理学の根幹をなす法則「CPT定理」の検証が可能であることに着目しました。CPT定理は、現代の物理学の枠組みでは厳密に成り立っているとされています。この定理と密接に関連する「CP対称性」はわずかに破れていることが知られており、私たちの宇宙には物質が豊富にあるにもかかわらず、反物質がほとんど見つからない理由の説明につながると考えられています。
  加えて実験に使用したガスにも特徴があります。ミュオニックヘリウム原子を生成するためには、ヘリウム原子の他にイオン化しやすいガスが必要となります。これは、ヘリウム原子に負のミュオンが捕獲されるとすぐに2つの電子を放出し、ミュオニックヘリウムイオンとなってしまうためです。1980年代の実験では貴ガスの1種のキセノンが使用されていました。 今回我々はメタンを使用したミュオニックヘリウム原子の生成例と、キセノンに比べてメタンが安価かつミュオンを吸収しない点に着目し、メタンを使用しました。

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図4:J-PARCや他の研究施設で進行中の実験と本研究の関連を表した図

努力したところはどこですか

  ミュオニックヘリウム原子の超微細構造の測定精度は、主にミュオニックヘリウム原子の数で決まります。一方でミュオンや、ミュオンを含んだ原子であるミュオニックヘリウム原子は約2マイクロ秒で崩壊してしまうため、基本的には使用するミュオンビームの強度と測定時間によって測定精度が決まってしまいます。今回の総実験期間の約15日の中でできる限り測定精度を向上するために、測定条件の最適化(図5)やより良い解析方法の検討に注力しました。具体的には、ヘリウムに2%だけメタンを混合したガスを用いて、3つの異なる圧力でミュオニックヘリウムの超微細構造共鳴曲線を測定(図6)し、ゼロ圧力への外挿により、ミュオニックヘリウム原子の超微細構造周波数を決定しました(図7)。

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図5:測定装置の概略図。ミュオンビームのエネルギーや入力マイクロ波の強度、装置の構造などを最適化した。

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図6:ミュオニックヘリウム原子の超微細構造共鳴曲線。マイクロ波のエネルギーと超微細構造の値が近いほど、信号強度は大きい。それぞれ(a) 3.0、(b) 4.0、(c) 10.4気圧での測定結果。

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図7:ガスの圧力とミュオニックヘリウム原子の超微細構造が一次関数で表される関係を持つ場合の、真空中での超微細構造の値を求めた結果。赤い点は各圧力での測定結果で、赤の実線は各点の関係の推定結果。比較のために1980年代の2つの実験結果(緑の点と青の点)と、1982年の測定でのガスの圧力と超微細構造の関係の推定結果(青の波線)も示している。

何がわかったのですか

  今回我々は、世界最高の測定精度でミュオニックヘリウム原子の超微細構造を測定し、パルスミュオンを使った測定技術を世界で初めて確立しました。また我々の技術とJ-PARC MLF MUSE Hラインの大強度ミュオンビームを利用すれば、ミュオニックヘリウム原子の超微細構造の測定精度を現在の100倍まで向上可能であることが明らかとなりました。現在はさらに測定精度を向上させるために更なる技術開発に取り組んでいます。

それで世界はどう変わりますか

  負の電荷を持つミュオンはプラスの電荷を持つミュオンに比べ質量などの測定精度が悪く、電荷の違いによる性質の違いがあまりよくわかっていませんでした。今回の実験を元にミュオニックヘリウム原子の超微細構造の精密測定を進めていけば、この電荷による性質の違い、すなわち粒子と反粒子の性質の違いが明らかになる可能性があります。
  加えて、現在は3つ以上の粒子から構成される複雑な原子についての理論はあまり発展していません。原子核と電子、ミュオンという3つの粒子で構成されるミュオニックヘリウム原子を精密に測定することは、複雑な状態に対しての理論の発展を大きく促すきっかけになると期待できます。

謝辞

  本研究はJSPS 科研費21H04481の助成を受けたものです。またJ-PARC MLFでの実験は実験課題 (課題番号 2020B0333、2021B0169、2022A0159)として行われました。

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論文情報

  "Improved Measurements of Muonic Helium Ground-State Hyperfine Structure at a Near-Zero Magnetic Field", Physical Review Letters 131, 253003 (2023).

DOI: https://doi.org/ 10.1103/PhysRevLett.131.253003
P. Strasser1,2,3, S. Fukumura4, R. Iwai1, S. Kanda1,2,3, S. Kawamura4, M. Kitaguchi4,5, S. Nishimura1,2, S. Seo6, H. M. Shimizu4, K. Shimomura1,2,3, H. Tada4, and H. A. Torii7 (MuSEUM Collaboration)
1) Muon Science Laboratory, Institute of Materials Structure Science (IMSS), High Energy Accelerator Research Organization (KEK).
2) Muon Science Section, Materials and Life Science Division, J-PARC Center.
3) Materials Structure Science Program, Graduate Institute for Advanced Studies, SOKENDAI.
4) Department of Physics, Nagoya University.
5) Kobayashi-Maskawa Institute, Nagoya University.
6) Graduate School of Arts and Sciences, The University of Tokyo.
7) School of Science, The University of Tokyo.

お問い合わせ先

< 報道担当 >
J-PARCセンター広報セクション
TEL:029 -287 -9600
E-mail:pr-section[at]j-parc.jp
 
※上記の[at]は@に置き換えてください。