プレスリリース

2022.05.20

ミュオンをつくるため、黒鉛円板は回り続ける
- 日本とスイスの国際協力による挑戦 -

大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
J‐PARCセンター

本研究成果のポイント

  ✣ 高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所では、大強度陽子加速器施設 (J-PARC) において加速した陽子ビームを黒鉛製のミュオン標的に照射することによってミュオンを生成して実験を進めています。
  ✣ 世界最大強度のパルス状の陽子ビームに対応するために、スイスのポールシェラー研究所 (PSI) からの技術協力で開発を進めた回転標的方式は、回転体を支える軸受が1年以内に破損してしまうことが問題でした。
  ✣ 物質構造科学研究所を中心としたグループでは、より長い寿命を達成できる軸受を採用することによって2014年~2019年の長期に渡る大強度ビーム運転を達成しました。
  ✣ この結果を受けて、PSIでも同じ軸受によって、2021年12月に1年間の安定な連続運転を達成しました。

概 要

  高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所では、大強度陽子加速器施設 (J-PARC) において加速した陽子ビームを黒鉛製のミュオン標的に照射することによって世界最高の質と強度を誇るミュオンビームを生成し、それを用いた物質生命科学や基礎物理の研究を進めています。先行して標的開発を進めていたスイスのポールシェラー研究所 (Paul Scherrer Institute、以下:PSI) からの技術協力で大強度の陽子ビームにも耐える回転標的方式の開発が進められました。一方、PSIでは回転標的の回転体を支える軸受が1年以内に破損してしまうため、実験を停止して標的を交換しなければならないことが問題となっていました。そこで、物質構造科学研究所を中心としたグループでは、より長い寿命を達成できる軸受の調査研究を行い、それをJ-PARC製の回転標的に採用することによって2014年~2019年の長期に渡る運転を実現しました。この結果を受け、PSIでも同じ軸受を採用したところ、2021年12月に安定な連続運転期間がPSIでは過去最長となる1年に達しました。世界の2大ミュオン施設であるJ-PARCとPSIはサイエンスの良きライバルであると同時に、相互協力により技術の向上に努めています。本技術は大強度化を目指す世界の加速器において、標的などを含む様々な回転体に応用可能です。

背 景

  現在、素粒子は17種類が知られていますが、身近に存在するのは光の粒である光子や電子です (物質を作る陽子や中性子も身近ですが、それらはクォークからできた複合粒子で素粒子ではありません) 。

  ミュオンは、電子などと同じレプトンと呼ばれる仲間に分類される素粒子です。1936年に宇宙線の中で発見されました。電子に比べて質量が約200倍もありますが、電子と同じマイナスの電荷を持つなど性質が似ています。

  私たちは光子や電子をさまざまな形で利用していますが、ミュオンもその特性を生かした活用が始まっています。宇宙線に含まれる天然のミュオンは透過性の高さから、ピラミッドの内部や原子炉の透視に使われています。また、加速器で人工的に作ったミュオンは物質中に自在に打ち込み止めることができるので、最近では緒方洪庵の薬箱に残されたガラス瓶内の薬物の特定に成功したことが話題になりました。J-PARCでは世界最高クラスの陽子加速器により人工的にミュオンを大量に作り出し、物質生命科学や素粒子物理学に関わる研究を進めています。

  たくさんのミュオンを長期間つくり続けるには、技術的な課題があります。ミュオンは、陽子ビームを厚さ20 mmの黒鉛製のミュオン標的に打ち込むことによって生成されたパイ中間子が直ちに崩壊することによって生み出されます。通常、ミュオン標的周辺の加速器では陽子ビームやパイ中間子・ミュオンビーム (注1) が空気と衝突して無くなってしまわないように空気のない真空状態とします。一方で、ミュオン標的は陽子ビームに晒されると熱が発生しますが、発生した熱を外に逃がす役割を担う空気が無いために、どのように冷却するかが重要となります。

  物質・生命科学実験施設 (MLF) では、高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所が中心となり、ミュオンを作り出すミュオン標的の開発を進めています。2008年に運転を開始した当初は、冷却水配管を埋め込んだ金属製のフレームに直径70 mmの円板状の黒鉛を接合して、黒鉛自体の伝熱によって冷却する固定標的方式を採用していました (図1左) 。J-PARCでは、より多くのミュオンを得るために陽子ビームの大強度化を目指しており、現在の目標である最大強度の1 MWに達した際には、黒鉛上に3.3 kWの熱と陽子ビーム照射による損傷が発生します。この陽子ビームによる損傷では、黒鉛の熱を伝える性能が失われたり、黒鉛が局所的に収縮したりします。この損傷の影響で、固定標的方式では1年でミュオン標的が破損してしまう恐れがありました。ミュオン標的が破損してしまうと、交換のためにはMLFの運転を3週間以上停止する必要があります。MLFの実験を安定して継続するためにはミュオン標的の寿命を延ばすことが必要でした。

  黒鉛が陽子ビーム照射によって損傷してしまう問題は陽子ビームを同じ場所に照射しないようにすれば解決できます。しかし、陽子ビームは正確にビームラインの中心を通す必要があり、陽子ビーム自体を動かすことは容易ではありません。そのために、回転標的という方式が登場しました。回転標的では、陽子ビームの位置は動かさないで、黒鉛自体を回転させることによって黒鉛上の損傷を広範囲に分散させます (図1右) 。同様に広範囲に分散された熱も輻射 (光の放出) によって冷却されます。

  PSIでは、J-PARCと同じくミュオンを利用した研究を展開しており、 J-PARC MLFが建設される以前の1985年から中間子標的 (注2) として黒鉛製の回転標的を使用しています。ミュオン標的開発者らはJ-PARC MLF建設時から、PSIのミュオン施設を訪問し、多くの研究者・技術者との国際協力によって、陽子ビームラインとミュオン標的開発の、良きお手本として参考としてきました。一方で、PSIではTarget MとTarget Eの2種類の回転標的を運用していますが、強度の高いE-Targetでは、1年に1回以上、回転標的の回転体を支える軸受が故障してしまい、実験を停止して標的を交換しなくてはいけないという問題を抱えていました。

研究内容と成果

  軸受は、外輪と内輪の間を複数のボールで支持する形状をしていますが、ボールと内外輪の間の摩擦を低減するために潤滑剤を使用します。通常は潤滑剤として固体と液体の中間の性質をもつグリースなどを使用します。しかしグリースは真空中にガスを多く放出すること、陽子ビーム照射による強い放射線の影響を受け、発熱で高温になることから、回転標的の軸受には使用できません。そのため、照射による影響を受けにくく、ガスの放出も少ない無機材質による固体潤滑剤を使用する必要があります。回転標的の軸受の寿命は固体潤滑剤の種類や形状に大きく左右されます。PSIでは軸受の固体潤滑剤として二硫化モリブデンや銀を内外輪やボールやボールの保持器にコーティングした軸受を採用していました (図2左) が、コーティングが剥がれ落ちてしまうと潤滑性能がなくなってしまいます。そのため、J-PARCでは、無機材質である二硫化タングステンの塊 (図2右下) をボール間に挿入した軸受 ( ㈱ ジェイテクト:WSベアリング) を採用しました (図2右上) 。この場合は、コーティングの場合よりも潤滑剤の量が圧倒的に多いので、より長寿命になることが期待できます。

  このように選定された軸受は、陽子ビームラインに導入する前に回転標的試作機に組み込まれ、真空中で高温に加熱しながら回転試験を重ねました。その回転試験の結果から、固体潤滑剤の形状を改良したJ-PARC MLF専用の軸受を採用することとしました。このように開発された回転標的1号機は2014年に陽子ビームラインに導入され5年間の安定した連続運転を達成しました。1号機の安定した連続運転の後に、2019年に交換された2号機では、ビーム強度が徐々に増強されるなか、2022年の現在に至るまでビーム強度0.83 MWで安定した運転を実現しています。また、目標としていた1 MWで、32時間の運転も無事に成功しています。本軸受のJ-PARCでの運転実績が良好だったため、PSIに同形状の軸受の採用を提案し、2年間の回転試験を経てビームラインに導入されました。その結果、2021年12月にPSIでは過去最長の連続運転時間 (1年間の安定運転) を達成しました。この成果によって、ビームタイムを失うことなくミュオンビームを実験に提供する見通しがつきました。

論文名

  加速器学会誌:牧村俊助、河村成肇、的場史朗「J-PARC MLF ミュオン生成標的」J. Particle Accelerator Society of Japan, Vol. 18, NO. 4, 2021, p202-209 (加速器学会誌のこの号には、J-PARCで開発されているハイパワー標的技術の論文が他にも掲載されています。) 

本研究の意義、今後への期待

  世界の2大ミュオン施設であるJ-PARCとPSIはサイエンスの良きライバルであると同時に、相互協力により新たな技術の向上に努めています。本技術は大強度化を目指す世界の加速器で採用される回転標的に応用可能です。

  今後大量のミュオンを継続的に生成できるようになり、物質生命科学や素粒子物理学などの研究が加速することが期待できます。

 (注1) 以下、特に区別する必要がなければ、「パイ中間子とミュオン」は「ミュオン」と略記しています。

 (注2) PSIではミュオンの元になるパイ中間子を発生させるため、中間子標的と呼んでいます。

参考図

20220520_01

図1:固定標的方式 (左) と回転標的方式 (右) 。回転標的方式では陽子ビームによる損傷と発熱が分散されるが、回転体を支える軸受が寿命を決定する

20220520_02

図2:従来の固体潤滑剤を利用した軸受では、ボール、外輪、内輪、ボールの保持器に二硫化モリブデンや銀をコーティングしていた (左) 。J-PARCでは二硫化タングステンの塊 (右下) をボール間に挿入した軸受 (右上) を採用した。

お問い合せ先

< 研究内容に関すること >
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
素粒子原子核研究所 技師 牧村 俊助
 (開発時は物質構造科学研究所) 
Tel:029 -284 -4723
Fax:029 -284 -4899
E-mail:shunsuke.makimura[at]kek.jp
 
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
物質構造科学研究所 技師 的場 史朗
Tel:029 -284 -4621
E-mail:smatoba[at]post.kek.jp
 
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
物質構造科学研究所 特別准教授 河村 成肇
Tel:029 -284 -4705
E-mail:nari.kawamura[at]kek.jp
 
< 報道担当 >
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
広報室長 勝田 敏彦
Tel:029 -879 -6047
Fax:029 -879 -6049
E-mail:press[at]kek.jp
 
J-PARCセンター
広報セクションリーダー 関田 純子
Tel:029 -284 -4578
Fax:029 -284 -4571
E-mail:pr-section[at]j-parc.jp
 

  ※上記の[at]は@に置き換えてください。

 

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