「理想の水素原子」で未知の物理現象を探索する
ミュオニウムのマイクロ波分光実験がスタート
本件のポイント
∗ J-PARCの大強度パルスミュオンビームを用いて、「理想の水素原子」ミュオニウムのエネルギー状態を詳細に分析することに成功
∗ パルスビームが瞬間的にもたらす多数の粒子を過不足なく数えるための陽電子検出器の開発が、測定精度向上に貢献
∗ 建設中の新ビームラインにおける実験が実現すれば、エネルギー測定精度の世界記録を10倍以上更新できる見込み
【 概 要 】
高エネルギー加速器研究機構 (KEK) 物質構造科学研究所の神田聡太郎助教 (研究当時は理化学研究所 基礎科学特別研究員) 、下村浩一郎教授らのグループは、KEK素粒子原子核研究所、理化学研究所、東京大学などと共同で、大強度陽子加速器施設 (J-PARC) 物質・生命科学実験施設 (MLF) ※1ミュオン科学研究施設 (MUSE) の大強度のパルス状ミュオンビーム※2を用いてミュオニウム原子の基底状態における超微細構造※3をマイクロ波分光※4することに成功しました。ミュオニウムは正電荷ミュオンと電子からなる水素に似た原子で、その超微細構造を精密に測定すれば量子電磁力学※5をはじめとする素粒子物理学の標準模型※6をきわめて高い精度で検証できます。今回の実験によって、1999年に米国ロスアラモス国立研究所で得られた世界記録を10倍以上更新できる見通しが得られました。
【 背 景 】
私たちの世界におけるミクロな現象は量子力学によって記述されます。量子力学は20世紀の初頭に水素原子の分光とともに発展してきました。水素原子は陽子と電子からなる、自然界に存在するもっとも単純な原子ですが、そのスペクトル線には微細構造や超微細構造 (Hyperfine Structure, HFS) ※3と呼ばれる構造が含まれています。水素原子のスペクトル線を理解するためには、量子電磁力学 (Quantum ElectroDynamics, QED) と呼ばれる相対論的な電磁相互作用の量子論が必要になります。QEDを用いた理論計算は電子などの素粒子に関して高い精度で実験結果と一致することが知られており、素粒子の相互作用を記述する有効理論である標準模型の一角を占めています。原子のスペクトル線を精密に分光して理論計算と比較することで、これらの理論がどこまで正しく現実を説明できるのか調べることができます。この世界を記述する理論の正しさを検証することで、「私たちはどこまで自然を正確に理解できているのか?」という自然科学の基本的な主題を追求してくことができます。
ところが、水素原子の原子核である陽子はそれ自体が複雑な内部構造を持つ複合粒子で、現代の理論を駆使しても計算可能な精度には限界があります。一方、陽子の代わりに正電荷のミュオン※7が電子と束縛して構成されるミュオニウムと呼ばれる原子を作ることができます。ミュオニウムは水素原子とよく似た性質を持ちながら、電子もミュオンも構造を持たない素粒子であるために高精度の理論計算が可能です。
ミュオニウムには正ミュオンと電子というふたつの素粒子しか含まれていないように見えますが、より正確には内部で瞬間的に様々な粒子が出現しては消滅しています。これが量子の世界なのですが、ミュオニウムが特徴的なのは、HFSに対する高次の効果が電磁相互作用に加えて強い相互作用、弱い相互作用も含めた形で精度良く計算されていることです。すなわち、ミュオニウムは単体で標準模型の相互作用を検証できる理想的な「水素原子」と言えます。
1970年代から90年代にかけて、米国のロスアラモス (Los Alamos) 国立研究所で直流状のミュオンビーム※2を用いたミュオニウムの分光実験が行われました。実験結果は高い精度で理論計算と一致しましたが、用意できるミュオニウムの数に限りがあることが測定精度を制限していました。さらなる高精度での測定が実現すれば、標準模型をより精密に検証し、わずかな綻びからでも、それを介して未知の物理現象を探索することが可能になります。
ミュオニウムの分光実験から、素粒子としてのミュオンが持つ基本的な性質 (質量、磁気能率など) を精密に決定することができます。これは、ミュオンを用いた様々な基礎物理実験や理論計算の精度向上に寄与します。たとえば、ミュオンの異常磁気能率と呼ばれる物理量は実験値と標準模型の予言値とが一致しないことで知られており、J-PARCでこのずれを先行研究とは異なった方法で検証するg-2/EDM実験の準備が進められています。
【 研究内容と成果 】
研究グループはJ-PARC MLF MUSEの大強度パルスミュオンビームを用いて大量のミュオニウムを生成し、その基底状態におけるHFSを精密に分光することで標準模型を検証すると同時に、それらを超えた未知の物理現象の探索を行うことを目指しました。
大強度のパルスミュオンビームを用いれば、ミュオニウムを大量生成して先行実験を上回るデータ量を得ることができます。しかし、そのためには瞬間的に多数生成される粒子を過不足なく数える高性能な検出器が必要です。そこで、研究グループは細分化したプラスチックシンチレーターと小型の半導体光検出器を組み合わせた陽電子検出器を開発しました (図1) 。この検出器には、物質科学の測定器としてMUSEで活躍しているミュオンスピン分光器の一部であるKalliope※8の信号処理回路を活用しました。
図1:陽電子検出器の写真
(1) 基板の上に小型の半導体光検出器を縦横24個ずつ2次元配列する。
(2) 基板の上からレーザー加工した白い紙を載せる。白い紙はシンチレーターの位置マーカーと光の反射材を兼ねている。
(3) 光検出器の上に1cm角のプラスチックシンチレーターを載せていく。シンチレーターどうしの境界面には反射材が挟まれている。
(4) シンチレーターを枠で固定して検出器が完成する。
図2:実験装置と測定原理
(a) 実験装置の概念図
ミュオンビームを貴ガスの一種であるクリプトンガスに入射して、電子捕獲によりマイクロ波共振器の内部でミュオニウムを生成する。
(b) ミュオンと電子はそれぞれスピンを持つため、ミュオニウムはスピンが平行か反平行か2通りの状態をとりうる。適切な周波数のマイクロ波を照射することでミュオンのスピンを反転させることができる。
(c) ミュオンが崩壊して放出される陽電子はミュオンのスピン方向に出やすい。この性質を利用して、ある角度範囲に放出される陽電子の数を数えることでミュオンのスピン、すなわちミュオニウムの状態を調べることができる。
実験装置は、陽電子検出器に加えてミュオニウムを生成するガス標的とマイクロ波共振器で構成されます (図2 (a) ) 。正電荷のミュオンをクリプトンガスに照射すると、ミュオンは電子をひとつ捕獲してミュオニウムになります。電子もミュオンも、スピンと呼ばれる磁石のような性質を持っています。スピンは「上向き (+1/2) 」と「下向き (-1/2) 」のいずれかで、ミュオニウムの状態は電子とミュオンのスピンの足し算で表すことができます。すなわち、ミュオニウムは電子とミュオンのスピンが「揃った=平行な状態」と「反平行な状態」のいずれかをとります (図2 (b) ) 。
適切な周波数のマイクロ波を照射することで、ある状態のミュオニウムを別の状態に遷移させることができます。この遷移に伴い、ミュオニウムを構成するミュオンのスピンが反転します。マイクロ波の周波数がHFSに一致するとき、最も高い確率でスピンが反転します。ミュオンは2マイクロ秒の寿命で崩壊して陽電子を放出します。このとき生じる陽電子の放出角度はミュオンのスピンと相関しています (図2 (c) ) 。よって、与えるマイクロ波の周波数を変えながら崩壊陽電子の計数変化を調べることで、HFSを求めることができます。
ミュオンDライン※1におけるパルス状ミュオンビームを用いた約15時間の測定で図3に示すようなHFSの共鳴曲線を観測し、ミュオニウムのHFSを4463.302±0.004 MHzと求めました。これは1000万分の9の精度に相当し、パルス状ミュオンを用いた実験でミュオニウムHFSの高精度測定が可能であることを示しました。
図3:実験の結果得られたミュオニウムHFSの共鳴曲線
横軸はマイクロ波の周波数を、縦軸は検出された陽電子の数がマイクロ波照射によって変化した割合を表す。マイクロ波の周波数がHFSに対応する周波数に近いほど陽電子計数の変化が大きくなる。
【 論文情報 】
"New precise spectroscopy of the hyperfine structure in muonium with a high-intensity pulsed muon beam", Physics Letters B 815 (2021) 136154.
DOI: 10.1016/j.physletb.2021.136154
S.Kandaa, Y.Fukaob,d,e, Y.Ikedoc,d, K.Ishidaa, M.Iwasakia, D.Kawallf, N.Kawamurac,d,e, K.M.Kojimac,d,e, N.Kurosawag, Y.Matsudah, T.Mibeb,d,e, Y.Miyakec,d,e,S.Nishimurac,d, N.Saitod,i, Y.Satob, S.Seoa,h, K.Shimomurac,d,e, P.Strasserc,d,e, K.S.Tanakaj, T.Tanakaa,h, H.A.Toriii, A.Toyodab,d,e, Y.Uenoa
a:理化学研究所
b:KEK素粒子原子核研究所
c:KEK物質構造科学研究所
d:J-PARC
e:総合研究大学院大学
f:University of Massachusetts Amherst
g:KEK共通基盤研究施設 超伝導低温工学センター
h:東京大学 大学院総合文化研究科
i:東京大学 大学院理学系研究科
j:東北大学
【 本研究の意義、今後への期待 】
本研究では、大強度のパルスミュオンビームを用いた精密測定が高い水準で実現可能であることを実証しました。今回得られた実験結果をもとに建設中の新ビームライン (ミュオンHライン※1) におけるミュオニウムHFSの測定精度を計算すると、およそ40日間の測定で世界記録を10倍更新できる見通しが得られました。
これまでに行われてきたミュオンビームによる精密実験は直流状のビームを用いたものが主でしたが、J-PARCにおける世界最高強度のパルスビームを活用した実験が様々な世界記録を塗り替えていくことが期待されます。
【 用語解説 】
※1. 大強度陽子加速器施設 (J-PARC) 物質・生命科学実験施設 (MLF)
大強度陽子加速器施設は高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学・原子核物理学・物性物理学・化学・材料科学・生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC内の物質・生命科学実験施設では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まる。
その中のJ-PARC MLF ミュオン科学研究施設 (MUSE: Muon Science Establishment) に、正負ミュオンの利用が可能なミュオンDラインとミュオンHラインがある。ミュオンDラインは2008年からビームを供給しているMUSE最初のビームラインで、ミュオンスピン回転法による物質科学研究から負ミュオンX線を用いた文理融合研究まで様々な分野に利用されている。またミュオンHラインは、きわめて高い強度のミュオンビームを供給可能な建設中のビームラインで、主にミュオンに関わる基礎物理実験に用いられる予定である。
※2. 直流状のミュオンビーム、パルス状のミュオンビーム
ミュオンビームは、陽子ビームを炭素などの標的に照射して核反応から生成したパイ中間子が崩壊することで得られる。ビームには大別して直流状とパルス状があり、前者は時間構造を持たないが後者は周期的な時間構造を持つ。直流状ビームではビーム粒子をひとつひとつ識別しながら実験することが可能な反面、複数粒子の同時入射への対応が困難である。パルス状ビームでは周期的なパルス中に多数の粒子が含まれており、それらをひとつひとつ区別することは難しいが、短時間で高い統計精度を達成することができる。
※3. 微細構造、超微細構造
原子は、原子核の周りに電子が束縛された物質である。原子のエネルギー準位は量子化されており、様々な相互作用に由来する構造を持つ。微細構造は電子が原子核の周囲を回ることに起因し、超微細構造は電子のスピンと原子核のスピンの相互作用に起因する。
※4. マイクロ波分光
周波数がGHz程度の電磁波 (マイクロ波) が物質に吸収される反応を利用して物質の性質を調べる実験手法。マイクロ波の磁気エネルギーを共振器と呼ばれる装置に閉じ込めて増幅し、ミュオニウムに吸収させて反応を起こす。マイクロ波の周波数に応じて反応の起きる確率が変わるため、用いるマイクロ波の周波数を変えながら測定を行う。原子・分子などにはエネルギー差が非常に小さく、マイクロ波を照射することで観測できるような構造が存在することがあり、このような構造を観測するのに適している。
※5. 量子電磁力学 委(Quantum ElectroDynamics, QED)
量子力学と相対性理論を組み合わせたものが場の量子論で、量子電磁力学は場の量子論の一種である。量子力学だけでは水素原子の構造のうちおおまかな全体構造しか説明できず、より詳細な構造を理解するための研究が量子電磁力学の成立に結びついた。
※6. 素粒子物理の標準模型
素粒子とそれらの間に働く力に関する有効理論で、物質を構成するフェルミ粒子と力を媒介するボース粒子が電磁気力、強い力、弱い力で相互作用する枠組みを記述する。高エネルギーの粒子加速器を用いた各種の実験によってその正しさが検証されてきたが、未解決の問題や謎を抱えており、標準模型を超えた未知の物理の存在が示唆されている。
※7. ミュオン
素粒子の一種で、スピン1/2と、100万分の2秒の平均寿命を持つ。負ミュオンと正ミュオンがある。負ミュオンは、電子とおなじ電荷-eで、電子と反電子ニュートリノ、ミュオンニュートリノに崩壊する。その反粒子である正ミュオンは、電荷+eを持ち、陽電子、電子ニュートリノ、反ミュオンニュートリノに崩壊する。
※8. Kalliope(カリオペ)
KEK物質構造科学研究所 ミュオン科学研究系、KEK素粒子原子核研究所 先端計測グループ、KEK共通基盤研究施設 計算科学センターが共同開発した高強度ミュオンに対応した陽電子検出器。プラスチックシンチレーター、半導体光検出素子、信号処理のための集積回路、データ収集ソフトウェアからなるシステムの総称で、本研究では信号処理回路部分のみを用いた。詳細はKEKハイライト「ミュー粒子の動きを捉える目、KALLIOPE」(https://www.kek.jp/ja/newsroom/2013/01/24/1700/)を参照。
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