緒方洪庵が遺した "開かずの薬瓶" 非破壊で解明
ミュオンビームによる医療文化財の分析に成功
【 研究成果のポイント 】
✣ 緒方洪庵※1の薬箱に遺された開栓不可能なガラス瓶内の薬剤を分析し、内容薬物の特定に成功
✣ これまで非破壊で密封された容器の内容物を分析することは不可能だったが、ミュオン※2ビームを利用することで可能に
✣ 破壊的分析が許されない文化財の分析への応用に期待
【 概要 】
髙橋京子招へい教授 (大阪大学総合学術博物館) 、髙浦佳代子特任助教 (常勤) (同) 、二宮和彦助教 (大阪大学大学院理学研究科化学専攻) 、佐藤朗助教 (同物理学専攻) らの研究チームは、三宅康博特別教授 (高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所/J-PARC) 、竹下聡史特別助教 (同) 、 反保元伸研究員 (同) 他と協力し、大阪大学の至宝・緒方洪庵の薬箱に収められたガラス製薬瓶のうち、開栓できずこれまで不明であった内容薬物について、ミュオンビーム (ミュオン特性X線※3分析) を用いた測定により同定することに世界で初めて成功しました。ミュオンビームはその透過性の高さから非破壊分析の新手法として注目を集めており、今回初めてミュオンビームの医療文化財測定への応用を試みました (図1) 。これにより、医療文化財の分析の進展への寄与が期待できます。
図1. ミュオン特性X線分析の特徴
ミュオンビームは、打ち込むエネルギーを変えて、任意の深さの元素組成を調べることができる。
本研究成果は、英文科学誌「Journal of Natural Medicines」に2021年3月13日 (日本時間) にオンライン公開されました。 (論文題目:A novel challenge of nondestructive analysis on OGATA Koan's sealed medicine by muonic X-ray analysis) 。
【 研究の背景 】
緒方洪庵 (以下、「洪庵」と表記) は大阪大学の医学部の源流である適塾の開祖であり、優秀な医師でもあったことが知られています。大阪大学では洪庵が壮年期と晩年期それぞれに使用した2つの薬箱を所蔵しており、これまでに、髙橋招へい教授らの研究グループでは、これら2つの薬箱の調査・研究を行ってきました。晩年期使用の薬箱 (図2) には液体または固体の製剤がガラス瓶22本と木製の筒状容器6本に遺されていましたが、調査開始段階でこのうちの数本は既に開栓不可能な状態でした。
髙橋招へい教授らのグループでは、今回の資料のように医療に関係する歴史的に貴重な実体物資料を「医療文化財」と定義づけ、研究を行ってきました。医療文化財の研究には文化財科学と医薬学双方の知識が必要です。洪庵はR漢方と蘭方※4双方を駆使した医師であり、内容物が多く遺されている2つの薬箱は、彼の治療戦略を現代に伝える非常に貴重な医療文化財です。しかし、本来長期保存を目的としていない薬箱の内容物は適切な保存方法をとらねばさらに状態が悪化する可能性があり、その対策を講じるためにもその薬物の組成や物性を把握することが大きな課題でした。しかし、晩年期使用薬箱の薬物類には洪庵独自の漢字一文字による名称が記されているのみで、製剤化された薬物の外観からは同定が困難です。そしてこのような貴重な文化財に対して、破壊を伴う分析は許されません。蛍光X線分析※5など、文化財分析に応用されているいくつかの既存の非破壊分析技術は、表面や露出している部分の分析に限られ、開栓不可能な薬瓶に対し、非破壊で内容薬物の組成を分析する方法はありませんでした。そこで、物質内部の分析法として最近注目されている、ミュオンビームを用いた元素分析法に着目し、分析を試みました。
図2. 緒方洪庵晩年期使用薬箱 (提供:髙橋)
【 研究成果 】
ミュオンビームによる分析は、高エネルギー加速器研究機構 (KEK) 物質構造科学研究所 ミュオン科学研究施設 (J-PARC MLF MUSE※6) にて、加速器を使って人工のミュオンビームをつくり行いました (図3) 。薬箱に収められた薬瓶のうち、蓋上部に「甘」と書かれ白色の粉末が内部に残存していた開栓不可能な薬瓶 (図4) を対象としました。この薬瓶は事前の蛍光X線での分析とミュオンビームによる測定結果から鉛カリガラス※7と呼ばれる鉛を含むガラスでできていることが判明し、その厚さは約3 mmありました。このような厚い鉛ガラス容器に入った内容物のみを分析することはX線を使った方法ではできませんが、ミュオンビームは鉛ガラスを非破壊で透過することができます。ミュオンビームによる分析からは、水銀、塩素のシグナルを観測することに成功しました (図5) 。瓶に表記された「甘」の文字の薬史学的な考証結果から、内容物は当時「甘汞※8」と呼ばれた塩化水銀 (I) であることがわかり、測定結果と一致しました。本研究では、鉛ガラス容器に封入された薬物の化学組成を、世界で初めて非破壊で分析することに成功しました。
図3. 測定時の様子 (J-PARC MLF MUSE)
【 本研究成果が社会に与える影響 (本研究成果の意義) 】
緒方洪庵の活躍した幕末期はコレラやインフルエンザなど感染症の大規模流行も多く見られました。現代においても、新型コロナウイルス感染症などの未知の感染症の流行はしばしば発生し、未だに人類の生命と社会を脅かし続けています。現代の科学をもってしても原因究明や治療薬開発には時間を要しますが、それまでの治療においては、原因も対処法も不明なまま、既存の治療薬で感染症に対応した洪庵の治療戦略が大きな手掛かりとなりえます。そしてその治療戦略の解明には、洪庵の使用した薬物の全貌解明が必要不可欠です。本研究により、容器を破壊せずに内容薬物の分析が可能であることが示され、今後医療文化財の非破壊分析の大きな進展が期待できます。そしてまた、こうした非破壊分析による資料の全容解明が進むことで、貴重な実物証拠である医療文化財資料を後世に伝えるためのより適切な保存方法・環境の整備にもつながります。貴重な資料を確実に継承し、また現代社会に対しても有意義な情報が資料から得られることを示すことで、医療文化財の価値を高め、研究の新しい展開をもたらします。
【 特記事項 】
本研究成果は、髙橋京子 (大阪大学総合学術博物館) 、髙浦佳代子 (同) 、二宮和彦 (大阪大学大学院理学研究科化学専攻) 、佐藤朗 (同物理学専攻) 、植田直見 (元興寺文化財研究所) 、梅垣いづみ 委( (株) 豊田中央研究所) 、反保元伸 (高エネルギー加速器研究機構/J-PARC) 、竹下聡史 (同) 、三宅康博 (同) によって行われました。本論文は、2021年3月13日 (日本時間) 、日本生薬学会発行の英文科学誌「Journal of Natural Medicines」のオンラインで公開されました。
論文タイトル | A novel challenge of nondestructive analysis on OGATA Koan's sealed medicine by muonic X-ray analysis |
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著者 | Kayoko Shimada-Takaura, Kazuhiko Ninomiya, Akira Sato, Naomi Ueda, Motonobu Tampo, Soshi Takeshita, Izumi Umegaki, Yasuhiro Miyake, Kyoko Takahashi |
なお、本研究は、J-PARC物質・生命科学実験施設 (MLF) 実験課題 (成果公開型) として採択され (Proposal No. 2019B0314・2014MS01) 、実施されました。調査・研究は適塾記念センター資料部会の承認のもと実施しています。また、本研究は、日本学術振興会2017-19年科学研究費補助金基盤研究 (A) (課題番号:17H00832) 、2018-20年 同 基盤研究 (C) (課題番号:18K01102) による成果の一部です。
【 用語説明 】
※1 緒方洪庵
1810年誕生、1863年没。江戸時代末期の医師、蘭学者。大坂に、大阪大学の前身の1つである適塾 (適々斎塾) を開設し、福澤諭吉、大村益次郎、長与専斎など多くの人材を輩出した。
※2 ミュオン
ミューオン、ミュー (μ) 粒子ともいう。電子の約200倍の質量をもつ素粒子であり、電子と同じ大きさの電荷をもつ。本研究では加速器で人工的に製造したミュオンを利用しているが、宇宙から飛来するミュオンを利用した研究もおこなわれている。
※3 ミュオン特性X線
負の電荷を持つミュオンが原子に捕獲された際に放射するX線。元素に固有のエネルギーを持つために、蛍光X線分析 (後述) と同じようにエネルギーの測定から元素の特定ができる。一方で蛍光X線分析で発生するX線の約200倍のエネルギーを有するため高い透過能を持つ。
※4 漢方と蘭方
漢方 (漢方医学) は中国医学を基に日本で独自に発展した医療体系を指す。これに対し、長崎出島のオランダ商館医 (医師) などを介して、江戸時代の日本に伝えられた西洋医学を蘭方 (蘭方医学) と称した。
※5 蛍光X線分析
元素に一定以上のエネルギーを照射することでそれぞれの元素に固有のエネルギーを持つX線が発生する。この強度を測定することで、対象物質の構成元素とその割合を求める測定手法である。
※6 J-PARC MLF MUSE
茨城県那珂郡東海村に設置された大強度陽子加速器施設 (J-PARC) 物質・生命科学実験施設 (MLF) 内のミュオン施設。世界最高強度のパルス状のミュオンビームが利用可能である。
※7 鉛カリガラス
ガラスは原料・組成の違いによりソーダ石灰ガラス、ほうけい酸ガラス、鉛カリガラスなどに分けられる。鉛カリガラスは鉛とカリウムを含んだガラスで、江戸時代には鉛を多く含んだガラスが多く作られていた。
※7 甘汞 (かんこう)
別名カロメル。塩化水銀 (I) (Hg2Cl2) 。かつてはおしろいや下剤などとして利用されていた。
【 本件に関する問い合わせ先 】
<研究に関すること>
(ミュオン分析について)
<広報・報道に関すること>
※上記の[at]は@に置き換えてください。