フラストレート量子磁性体におけるハイブリッド励起を発見- 譲り合う励起状態たち -
発表者
発表のポイント
✣ 量子無秩序状態から非共線磁気秩序状態への量子相転移を示すフラストレート量子磁性体の励起スペクトルを圧力下中性子非弾性散乱により観測した。
✣ 量子臨界点近傍において、位相揺らぎと振幅揺らぎのハイブリッド励起の検証に初めて成功し、そのミクロな起源を明らかにした。
✣ フラストレート量子磁性体において、圧力による熱流やスピン流の制御の可能性が示唆された。
発表概要
東京大学物性研究所の益田隆嗣准教授らのグループは、静岡大学、東京工業大学、高エネルギー加速器研究機構 (KEK) 、Oak Ridge National Laboratory (ORNL) と共同で、フラストレート量子磁性体 (注1) CsFeCl3の量子臨界点 (注2) 近傍で、位相揺らぎと振幅揺らぎの混成によるハイブリッド励起を観測し、その起源を解明しました。
物質の運動状態の研究は、電気抵抗、熱伝導、スピン流などデバイスの性能を左右する物性の基礎的理解に不可欠です。従来、運動状態については、位相揺らぎと振幅揺らぎがそれぞれ独立に研究されてきました。これらが混成した状態 (ハイブリッド励起) は、熱電材料に関する現象報告のみで、磁性体や超伝導体などの系では、実験的検証はなされておらず、研究が遅れていました。位相揺らぎのみをもつ励起状態と振幅揺らぎのみをもつ励起状態が存在するとき、それらは中性子スペクトル (注3) において観測されますが、その励起状態たちは交差します。しかし、両方を含む二つの励起状態がある場合、見知らぬものと仲間との両方が含まれていることを察知した励起状態たちは互いに譲りあって、よけ合うようになります。本研究では、圧力下での中性子散乱実験 (注4) により、互いがよけ合うような中性子スペクトル、すなわちハイブリッド励起を観測しました。さらに、フラストレート量子磁性体に特有な非共線磁気秩序 (注5) が位相と振幅を強くハイブリッドさせることで、一つの励起に二つの揺らぎが内包していることを理論的に示しました。これにより、圧力により運動状態がどのように変化するかを正確に説明することができました。
量子臨界点近傍におけるハイブリッド励起は磁性体のみならず、電荷密度波系、スピン密度波系、冷却原子系など自発的対称性が破れた系 (注6) 一般に存在しうるものであり、今後さまざまな系での検証が期待されます。また、運動状態の圧力変化から、量子臨界点をまたぐことでスピン熱伝導が大きくなることやスピン波の速さが大きくなることが予想されました。このことは、圧力による熱流やスピン流の制御の可能性を示唆します。
発表内容
① 研究の背景
私たちの生活を豊かにするエレクトロニクスデバイスでは、電気抵抗、熱伝導、スピン流などさまざまな物性が利用されていますが、それらの理解には物質の運動状態を明らかにすることが重要です。自然界はエネルギーの低い状態を好む傾向がありますので、その最安定状態からの揺らぎを考えることが物質の運動状態を考えることの基本となります。そして、物質のエネルギーを状態がもつ秩序を表すマクロな変数 (秩序変数と呼ばれる) の関数として表すことにより、物質の運動や状態変化を考えることができます。強磁性状態、超伝導状態、強誘電状態など、何らかの秩序が存在する系は、一般に自発的対称性が破れています。秩序変数が複素数で表される場合には、秩序状態でのエネルギーは図1のようなワインボトルの底のような形をしています。ここで動径方向は秩序変数の振幅 (大きさ) を、円周方向は位相を表しています。位相揺らぎによる運動状態は、自発的対称性が破れた系では必ず存在することが知られています。振幅揺らぎの方は、2012年に素粒子物理学分野でヒッグス粒子が発見されて以降、物質中のヒッグス粒子的運動状態として注目を浴び、超伝導体、磁性体などにおいてヒッグスモード (振幅モード) の実験的な検証が精力的になされてきました。このように位相揺らぎと振幅揺らぎは独立に考えることが普通に行われてきましたが、これらが混成した状態は、熱電材料における光学・音響フォノンの混成に関する現象論的報告のみで、磁性体、超伝導体をはじめとする数々の系における研究は遅れていました。
磁性体においては、明瞭な振幅モード出現の条件として、(i)3次元的な系であること、が必要とされており、振幅モードと位相モードの混成の条件として、(ii)非共線磁気秩序を有すること、が必要とされます。さらに、その混成の効果が顕著となり検証可能となる条件として、(iii)系が量子臨界点近傍にあること、が必要となります。三角格子をもつフラストレート量子磁性体CsFeCl3は条件(i)を満たすことが古くより知られていました。さらに最近の研究から、図2に示されるように圧力印加により量子無秩序状態から非共線磁気秩序状態への量子相転移が存在することが報告され、条件(ii)、(iii)も満たすことが分かりました。このことから、CsFeCl3は位相揺らぎと振幅揺らぎの混成したハイブリッド励起モードの実験的検証の最適なモデル物質と考えられます。
② 研究内容
物質の磁気は磁性原子のもつ電子のスピン (注7) が担っています。このスピンの運動状態は、中性子散乱実験により調べることができます。そこで本研究グループは、大強度陽子加速器施設 (J-PARC) の物質・生命科学実験施設 (MLF) に設置された高分解能チョッパー分光器HRC (図3A-Cカラープロット) とオークリッジ国立研究所の研究用原子炉に設置された三軸分光器CTAX (図3A-C黄色/赤色シンボル) を併用して、CsFeCl3の中性子スペクトルをさまざまな圧力下で測定しました。臨界圧力以下の量子無秩序状態においては、波数が1/3や2/3において極小となるようなエネルギーギャップを有するスペクトルが観測されました (図3A,B) 。これらの波数ではスペクトルの傾きが0となっており、このことは、スピン熱伝導やスピン波速度が強く抑制されていることを示唆します。一方臨界圧力以上の非共線秩序状態においては、波数1/3や2/3においてエネルギーギャップが消失するようなスペクトルが観測されました (図3C) 。スペクトルの傾きが有限となっており、このことは、スピン熱伝導やスピン流が大きくなっていることを示唆します。さらに、0.5 - 0.8 meVと0.8 - 1.3 meVの領域に特徴的なスペクトルが観測されました。これらのスペクトルを検証するため、拡張スピン波理論とよばれる手法を用いて再現を試みました。非共線秩序の特徴を正しく考慮した場合は、位相モードと振幅モードが混成し、その効果は低エネルギーにある2つのスペクトル曲線と高エネルギー側にある2つのスペクトル曲線の反発として観測されました (図3D) 。これは、仲間と見知らぬものが共存する励起状態は互いに譲り合いよけ合ったためです。意図的に混成効果を無視した場合は、2つのモードは譲り合うことなく交わり、実験結果を再現しませんでした (図3E) 。
非共線秩序においてはモード混成、すなわち励起状態の譲り合いは自然に生じます。臨界点近傍でモードは強く混成し、臨界圧力を通じて磁気励起が連続的に変化することを保証しています。このように、中性子散乱実験と理論計算を組み合わせることにより、スペクトル形状の圧力変化を正確に説明することができ、磁性体における位相モードと振幅モードの混成したハイブリッド励起モードが実証されました。また、臨界圧力以下で抑制されていたスピン熱伝導やスピン波速度が、臨界圧力以上で大きくなることが期待されます。
③ 社会的意義・今後の予定
ハイブリッド励起は磁性体のみならず、電荷密度波系、スピン密度波系、冷却原子系など自発的対称性が破れた系一般に存在しうるものであり、今後さまざまな系での検証が期待されます。また、混成現象は量子臨界点近傍で顕著となることが予想されていますが、これは広範囲な圧力実験を行うことにより検証可能です。スペクトル形状の圧力変化から、圧力による熱流やスピン流の制御の可能性が示されました。このことは、熱流やスピン流のスイッチデバイスとなることを示唆します。さらにスペクトルの詳細形状を解析することにより、混成効果が励起の寿命に与える影響についても検証可能です。本研究により物質の運動状態の研究に関する指針が提示されました。
本研究成果は、物性研究所とKEKがJ-PARCで運営する最新型チョッパー分光器と、物性研究所が日米協力事業によりORNLと共同運営する研究用原子炉の従来型三軸分光器の相補利用により創出されました。2021年2月に日本の研究用原子炉JRR-3が再稼働予定となっていますが、本研究のようなこれらの相補的利用が中性子散乱実験で非常に効果的であることも示されました。
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用語解説
(注1) フラストレート量子磁性体:
幾何学的配置や逆の効果をもつ相互作用の競合によって、スピン間に働く全ての相互作用エネルギーを最低にすることができない状況にある磁性体をフラストレート磁性体という。たとえば図4のように、三角形の頂点上に反平行にスピンを並べようとすると、全てのスピンが互いに反平行になる配置はない。自然界はエネルギー最低の状態を好むが、それが阻害されるため自然はフラストレーションを感じることになる。一般に、フラストレート磁性体では最安定な状態が複数存在するが、最低温では一つの状態が選ばれる。このとき思いもよらぬ状態が選ばれることがあり、これは、フラストレーションをため込んだ人間が思いもよらぬ行動をとることと似ている。人間界ではそれはしばしば不幸な事件となるが、自然界では新しい現象の発見につながる場合がある。フラストレート磁性体の中で量子性 (状態の揺らぎやすさ) の強いものがフラストレート量子磁性体と呼ばれている。
(注2) 量子臨界点:
絶対零度における最安定状態は、圧力や磁場などを加えることにより劇的に変化する場合があり、これは量子相転移とよばれている。秩序変数の変化が連続的である場合、状態変化が起こる圧力や磁場は量子臨界点とよばれている。量子臨界点近傍では大きな量子揺らぎによって新奇な量子現象が出現することが多く、多くの関心を集めている。
(注3) 中性子スペクトル:
中性子散乱実験により得られた4次元空間 (エネルギー+3次元波数空間) 上のデータのこと。生データは時間+3次元波数空間となっているが、スペクトル表示する際には時間をエネルギーに変換している。中性子スペクトルを解析することにより、物質中のスピンのミクロな運動を調べることができる。
(注4) 中性子散乱実験:
中性子の持つスピンを利用して、物質の磁気状態を探査する実験方法のこと。物性研究所附属中性子科学研究施設では、 (1) J-PARC MLFにおける高エネルギーチョッパー分光器、 (2) 米国Oak Ridge国立研(ORNL)の研究用原子炉HFIRにおける冷中性子三軸分光器CTAX、 (3) 日本原子力研究開発機構の研究用原子炉JRR-3における数多くの中性子分光器群を所有し、全国共同利用に提供している。東日本大震災以降JRR-3は停止しているが、2021年2月に再稼働が予定されており、物性研究への中性子利用の再開が期待されている。
(注5) 非共線磁気秩序:
単純な構造の磁性体では、スピンが平行や反平行に並んだ "共線磁気秩序" が出現するが (図5A参照) 、フラストレート磁性体では隣接するスピンのなす角度が平行からずれた "非共線磁気秩序" が出現する場合がある (図5B参照) 。ハイブリッド励起の起源となるほか、マルチフェロイクスの起源となることも知られており興味が持たれている。
(注6) 自発的対称性の破れた系:
気体状態の分子は熱運動により複雑な動きをしているが、時間平均をとると空間のどの場所にも均一に存在していることになる。これは、いわば対称性の良い状態といえる。温度を下げて固体となると分子は規則的にならび秩序的な状態となるが、空間的に分子のある場所とない場所が存在することになる。これは対称性の低い状態といえる。一般に自然界では温度を下げると自発的に対称性が破れて秩序状態が出現することが知られている。結晶、磁石、超伝導体、誘電体などは自発的対称性の破れた系である。
(注7) スピン
物質の磁性の起源となる物理量のことであり、直観的にはミクロな磁石と考えてよい。模式的には矢印で書き表される。回転運動と密接な関連があるためスピンという用語が用いられている。電子や陽子、中性子などの素粒子はいずれもスピンを有している。物質中の電子が有するスピンが物質の磁性を支配している。
添付資料
図1:自発的対称性の破れた系のエネルギー
図2:CsFeCl3の状態の圧力依存性
量子無秩序状態から非共線磁気秩序状態へ、0.9ギガパスカル付近で相転移する (量子臨界点) 。この近傍で位相モードと振幅モードは強く混成すると予測、検証を行った。
図3: (A) - © さまざまな圧力下で測定されたCsFeCl3の中性子スペクトル。
大気圧下 (A) と0.3ギガパスカル (B) では1本のスペクトルが観測されたが、量子臨界点近傍の1.4ギガパスカル © では複数の特徴的なスペクトルが観測された。 (D) , (E) 中性子スペクトルの計算結果。位相モードと振幅モードの混成を考慮した計算 (D) は実験 © を再現するが、考慮しない計算 (E) は実験 © を再現しない。
図4:三角形の頂点状にスピンを反平行に並べようとした図。
頂点1と2のスピンを反平行に並べた。頂点3のスピンをどのように並べても、1,2,3すべてのスピンを反平行に並べることはできない。
図5: (A) 共線磁気秩序の例 (B) 非共線磁気秩序の例