ディスプレイ用半導体の性能を左右する微量な水素の振舞いが明らかに- 素粒子ミュオンで透明半導体IGZO(イグゾー)中の不純物水素の局所電子状態を解明 -
2019年9月27日
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
国立大学法人 東京工業大学
J-PARCセンター
本研究成果のポイント
○ 微量水素が透明半導体IGZOの性能を左右するメカニズムの一端を、ミュオン注入により解明
【概 要】
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構(KEK)物質構造科学研究所の小嶋 健児 准教授(当時)、平石 雅俊 研究員、門野 良典 教授らのグループは、東京工業大学 科学技術創成研究院 フロンティア材料研究所の井手 啓介助教、神谷 利夫 教授、同大学 元素戦略研究センターの松石 聡 准教授、細野 秀雄 栄誉教授らのグループと共同で、ディスプレイ用として広く使われている透明半導体IGZO(イグゾー)において注目を集めている微量の不純物水素の振る舞いを明らかにしました。
本研究では、IGZO試料に水素の軽い同位体(=擬水素)としてのミュオンを注入し、ミュオン自身およびその周辺の状態をミュオンスピン回転法(µSR)(※1)を用いて詳細に調べるとともに、第一原理計算(※2)による結晶IGZO中の水素のシミュレーションからの情報を組み合わせることで、ミュオンを中心とした格子欠陥の局所電子構造を解明しました。これにより、不純物としての水素がIGZOの導電性に大きな影響を与える微視的なメカニズムの一端が明らかになりました。
一般に、半導体・誘電体などの電子材料では、その電気特性が微量の不純物に大きく左右されますが、中でも水素は最も普遍的に存在するにもかかわらず、最も捉えにくい不純物の一つです。本研究は、擬水素としてのミュオンからの情報と、近年発展している第一原理計算による予想とを組み合わせることが、水素を捉えるために有効であることを示し、この手法が様々な電子材料中での水素不純物の影響を調べる研究に応用されることが期待されます。
この研究成果は米国現地時間の9月17日、学術誌Applied Physics Lettersに掲載されました。
【背 景】
インジウム(In), ガリウム(Ga), 亜鉛(Zn)からなる酸化物半導体であるInGaZnO4(IGZO:イグゾー)は、高性能で均質なアモルファス薄膜形成に適しており、大型液晶テレビ・モニタからスマートフォンまで様々なディスプレイ用の薄膜トランジスタ材料として近年急速に普及しています。その一方で、長時間のバックライト照射・電圧下でのトランジスタの閾値電圧がシフトする不安定性(光照射下負バイアス負荷不安定性(Negative Bias Illumination Stress:NBIS)(※3))など、今なお改善すべき性能上の問題も抱えています。従来の様々な研究から、これらの問題の多くに不純物としての水素が絡んでいることが明らかになっていますが、物質材料の内部に存在する微量(一般にppm以下)の水素を原子スケールで調べる手段は限られており、IGZO結晶中、さらにはアモルファスIGZO中で水素が具体的にどのような局所状態を取っているかについての実験的な情報は限定的なものにとどまっています。
【研究手法と成果】
ミュオンは素粒子の一つで、同じ質量で反対の電荷を持つ正ミュオン(µ+)と負ミュオン(µ-)がありますが、正ミュオン(以後こちらを単にミュオン(Mu)と呼びます)を物質に注入・停止させると、そこであたかも水素のように振る舞う(=擬水素)ことが予想されます。したがって、物質中でのミュオンの局所状態を詳細に観測することで、対応する水素についての情報を得ることができます(図1)。
そこで、本研究ではIGZOにミュオンを注入し、µSR測定によりその局所状態を詳細に観測することで、擬水素としてのミュオンの状態を調べました。具体的には、µSR測定で得られるミュオン位置での内部磁場分布(外部磁場ゼロ[=ゼロ磁場]では主に核磁気モーメントからの磁場に由来)から、ミュオンに最隣接しているIn, Ga, Zn,酸素(O)という4種類の原子の分布に関する情報を得るとともに、それと第一原理計算で結晶IGZO中の水素について予想される候補位置での分布、および形成エネルギーを比較することでミュオンの局所状態を推定しました。
なお、実験は水素濃度が低い結晶IGZOとアモルファスIGZO薄膜、および意図的に水素処理をしたアモルファスIGZO薄膜の3種類について行い、結晶IGZOについては大強度陽子加速器施設(J-PARC)物質・生命科学実験施設(MLF)(※4)内のミュオンS1-ARTEMIS実験装置、2種類のアモルファスIGZOについてはいずれもポール・シェラー研究所(スイス)の低エネルギーミュオン(LEM)実験装置を用いてµSR測定を行いました。
実験・解析の結果、ミュオンが感じる内部磁場の分布幅から、結晶IGZOおよびアモルファスIGZO薄膜ではミュオンがZn-Oの結合中心付近にあってMu+の状態を取っていることが分かりました(図2(a)-(c), 図3)。これは、水素が不純物として侵入した場合、その濃度が希薄であれば結晶・アモルファスいずれにおいてもZn-Oの結合中心近くに存在する(つまり水素周辺の局所構造は結晶・アモルファスの違いに影響されない)こと、さらに、いずれの場合にも水素はそこでイオン化(H → H+ + e-)して電子を供給する、つまり意図しないn型伝導を引き起こす原因となることを意味します。
一方、あらかじめ水素プラズマ処理により水素を高濃度で導入したアモルファスIGZO薄膜中に注入されたミュオンでは、未処理のIGZOの場合に比べて観測される内部磁場の分布がローレンツ分布型となって大きく乱れていることから(図2(d))、周りの原子分布も0.5ナノメートル以下の長さスケールで乱れていること、さらに内部磁場の大きさから、水素処理により注入された水素のそばにミュオンが存在している可能性が高いことが明らかになりました。これは、酸素空孔中に2つの水素が捕獲されて2H-という水素の負イオン(ヒドリド)状態を作る、という最近の理論的な予想とも整合し、水素が1個だけ存在する酸素空孔に後から来たミュオンが捕獲される(Mu-H- の対となる)傾向を示唆しています。また、この場合にはO2-イオンが抜けた後を2H-が占めるため、電子供給は起きないことも分かります。
興味深いことに、このような水素負イオンは、光励起により電子を伝導帯に供給することが知られており、同様の機構がアモルファスIGZOで現在問題となっているNBISの原因である可能性も指摘されています。今回の実験からはアモルファスIGZO薄膜中にもそのような水素負イオン状態(酸素空孔中の2H-)が実際にあり得ることを示唆していると考えられます。
【本研究の意義、今後への期待】
一般に、半導体・誘電体などの電子材料では、その伝導性や誘電率がppmレベルの微量不純物に大きく左右されますが、中でも材料の奥深くに存在する水素の微視的な情報を得る汎用的手段は今のところ存在しない、と言っても過言ではありません。本研究は、この困難を解決する上で、擬水素としてのミュオンからの情報と、近年発展している第一原理計算による予想と組み合わせた研究が有効であることを示し、この手法が様々な電子材料中での水素不純物の影響を調べる研究に応用されることが期待されます。
<論文情報>
【参考図】
図2:(a)結晶IGZO,(b)アモルファスIGZOで観測されたミュオン偏極度の時間変化
図3:(a)IGZO結晶中の水素の周りの原子分布ごとの形成エネルギー(Ef)と対応する内部磁場の分布幅(Δ)
【用語解説】
物質を構成する原子の隙間に注入したミュオン(ミュー粒子)を用い、そのスピン偏極度の時間変化からミュオンが感じる内部磁場の大きさやそのゆらぎを精密に観測する実験手法。注入・停止したミュオンの周り0.5ナノメートル程度の範囲の局所的な情報に加え、擬水素としてのミュオン自身の電子状態についての情報も与える。放射光・中性子を用いて得られる物質内の長距離にわたる情報とは相補的な関係にある。
第一原理(first principles)計算とは、最も基本的な原理に基づく計算という意味であり、電子-電子、原子核-原子核、および電子-原子核間のクーロン相互作用から出発し、量子力学の基本法則に基づいた理論を用いて電子分布、および物質の諸性質を計算することを指す。非経験的電子状態計算とも呼ばれる。近年における計算環境の急速な向上により、短時間で高い計算精度が得られるようになりつつある。
※ 3. 光照射下負バイアス負荷不安定性(Negative Bias Illumination Stress:NBIS)
透明薄膜トランジスタは、ディスプレイ装置で画素のオン/オフ(スイッチング)を制御するためなどに用いられる。アモルファスIGZOで構成された薄膜トランジスタでは、長時間光照射された状態に置かれた際に、スイッチングの動作電圧(閾値電圧)が徐々にマイナス側にシフトしていく現象が知られており、特にゲート電極に負バイアスを印加すると顕著になり、光照射下負バイアス負荷不安定性と呼ばれる。これが起きるとトランジスタのオフ動作が機能しなくなり、画素のスイッチング制御ができなくなる。液晶ディスプレイなどではバックライトによる継続的な光照射が起きるため、この問題の原因究明と対策が喫緊の課題となっている。
※ 4. 大強度陽子加速器施設(J-PARC) 物質・生命科学実験施設(MLF)
高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC内の物質・生命科学実験施設(MLF)では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われ、世界中から研究者が集まる。
ミュオンは素粒子としての分類上は陽電子・電子の仲間だが、質量が電子の約200倍と重く、特に正ミュオンは物質中で陽子の軽い放射性同位体として振舞う。つまり、陽子(H+)が物質中で電子を捉えて水素原子(H0)、あるいは負イオン(H-)となるように、ミュオン(Mu)もこれらに対応した電子状態(Mu+, Mu0, Mu-)を取る。さらに、これら原子としての性質は束縛されている電子軌道のサイズで決まるが、HとMuではその違いがわずか0.4%と小さいため、Muは「水素そのもの」とみなすことができる。ミュオンの「元素」としての性質が水素と同じであるとも言い換えることができ、ミュオンの元素名として「ミュオジェン(Muogen)」(元素記号:Mu)が提案されている(図1)。
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