氷の中でのミュオンの不思議な挙動を解明
- 50年来の謎を解く鍵は「量子」の振る舞い -
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
J-PARCセンター
本研究成果のストーリー
✣ Question
「ミュオン」は不安定な素粒子で寿命はわずか約2マイクロ秒です。そのわずかな時間に周囲の世界を眺めます。水の中に打ち込まれたミュオンは、水分子がマイクロ秒よりもっと短い時間で運動していて目まぐるしく変わり続けるため、磁場が打ち消し合ってゼロのように感じています。ところが水が凍ると、水分子は結晶構造に固定されるため、激しい動きが止まり、ミュオンは水分子の磁場を認識することになります。これによって、ミュオン自身のスピンがかき乱され、バラバラになろうとします。このような変化が観測されることはミュオンの研究が始まった50年前から知られていましたが、その様子を正確に説明することは誰もできませんでした。さらにそこに量子性というキーワードが潜んでいることに気づくひとはいませんでした。
✣ Findings
J-PARC(大強度陽子加速器施設)のビームを使って、凍った水(氷)の中でミュオンのスピンが示す「量子コヒーレンス(量子的な波の性質が保たれる状態)」を観測しました。ミュオンは水分子の水素(陽子)の1つと入れ替わり、「MuOH」という特殊な分子を作ります。このときミュオンのスピンが周囲の水素原子核の核スピンから感じる磁場をモデル化し、これまで謎だった信号の変化(感じている磁場のバラツキによってスピンの向きがバラバラになる現象や回転周期のズレ)を正確に説明することに成功しました。
✣ Meaning
水という身近な物質で基本的な量子効果による理解が重要であることを示しました。水は物理学、化学、生物学、さまざまな分野にわたる基本となる分子であり、新しい視点をもたらす成果です。
図1 水の中でのミュオンの量子の振る舞いのイメージ図。青い球(ミュオン)が水分子の水素と入れ替わって「MuOH」を作ります。氷点下では、このミュオンが周りの水分子(波線)と目に見えない力で結びついています。波線の太さは結びつきの強さを表しています。
120文字サマリー
ミュオンを氷に打ち込むと水分子の水素のひとつと入れ替わり、特殊な分子「MuOH」を作ります。この中のミュオンのスピンが、周囲の水素の核スピンと量子の波を同調させる「量子コヒーレンス」を起こしていることを発見。長年謎だった氷点下での実験データの信号変化は、これが原因でした。
概要
氷の中で、新しい量子の働きを発見しました。ミュオンを水に打ち込むと、水分子(H2O)の水素の1つと入れ替わり、「MuOH」という特殊な分子を作ります。私たちは、このMuOHの中にあるミュオンのスピンが、周りを取り囲む水分子の水素の核スピンと「量子コヒーレンス(量子の波が同調する現象)」を起こしていることを見つけました。氷のミュオン実験のデータで長年謎だった信号の変化は、この相互作用が原因だったのです。
研究グループ
大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK)・物質構造科学研究所:Amba Datt Pant 研究員、幸田章宏 教授、石田勝彦 研究員、中村惇平 技師、西村昇一郎 特別助教、平石雅俊 研究員、下村浩一郎 特別教授
ゲッティンゲン大学:Burkhard Geil 教授
トリブバン大学:Anjan Dahal 研究員, Anup Shrestha 研究員, Hari Shankar Mallik 助教
研究者からひとこと
KEKのAmba Datt Pant 研究員:数年にわたる集中的な研究の結果、私たちは50年以上にわたって未解明であった水における量子効果を明らかにしました。本成果は、ミュオンを用いた含水材料や生体システムの解明に向けた画期的な第一歩です。
なぜこの研究を始めたのですか
ミュオンという素粒子のビームは、物質や生命のミクロな性質を調べるための「特別な虫眼鏡」として使われています。タンパク質やDNAの働きなど、生命に関わる現象を調べたり、医療に応用したりすることが期待されています。私たちは現在、J-PARCの強力なミュオンビームを使えば、がんについての研究も可能ではないかと考えています。
しかしその前に、水やアミノ酸など、生体の基本となる物質についてミュオンで分かることは何なのか、しっかり理解する必要があります。水はどこにでもある物質ですが、温度や圧力によってさまざまな姿を見せます。これまで50年以上にわたり、水の中でのミュオンについて研究が行われてきましたが、そのミクロな仕組みや量子としての振る舞いについて、まだ十分には分かっていませんでした。そこで私たちは、まず一番基本的な「水」から研究を始めました。
ひらめいたところはどこですか
研究の転換点は、水溶液中の生体試料から得られるミュオン信号の一部が、純粋な水と酷似していることに気づいた時でした。この発見が、複雑な生体システムを解析する前に、まずはその土台となる「水」の基礎研究を優先すべきだという確信につながりました。私たちは幾度もの実験を重ねて結果を徹底的に検証し、その背後にある量子的な挙動を説明する理論モデルを構築しました。
努力したところはどこですか
最大の挑戦は、長年確立されてきたこの研究分野を、全く新しい視点から捉え直すことでした。私たちは従来の考え方の枠を超え、水や氷の中でのミュオン信号の挙動を真に理解するために、厳密な量子力学的なアプローチを採用する必要がありました。これらの量子相互作用を組み込み、実験データを正確に説明できる理論モデルを構築することは非常に大きな壁でしたが、粘り強い努力の末に、私たちは見事にその難題を乗り越えることができました。
何がわかったのですか
水にミュオンビームを打ち込むと、水が液体か固体かによって、ミュオンの姿(電荷状態)が変わります。液体の水では、ミュオンが電子を捕まえた「ミュオニウム(水素原子の水素がミュオンになったもの)」や、周りの分子と結びついた状態になります。しかし、氷(凍結水)の中では、ミュオニウムの形が少し歪んだり、「MuOH」という特殊な分子、そして別の種類のミュオンの集まりができることが分かりました。
図2 従来の実験で観測された、水と氷の中でのミュオンの姿の違いを示すイメージ図。
ミュオンに磁場(20ガウス)をかけてそのスピンの変化を時間を追って測定したデータ(図3)を見ると、液体と氷では明確な違いがあります。液体の水では、コマの首振り運動のようなきれいな波の信号が長く続きます。一方、凍った水では、波がすぐに小さくなり(緩和)、波の周期もわずかにずれる(周波数シフト)ことが分かります。
50年以上にわたる研究でも、氷の中での波の減少やズレを正確に説明することはできていませんでした。私たちは、MuOH分子の中のミュオンスピンが周りの水分子と「量子力学的な相互作用」をしているというモデルを考えました。この新しいモデルを使うと、無理に数式をいじらなくても、実験データを見事に説明できました。さらに、重水(D2O)を使った実験でもこのモデルが正しいことが確認され、氷の中でのミュオンの「量子効果」を発見するに至りました。
図3 ミュオンの信号データ。水(赤丸)ではきれいな波が続きますが、氷(黒丸)ではすぐに波が小さくなり、周期のズレが起きています。この変化はミュオンスピンの量子効果として説明できることを解明しました。
それで世界はどう変わりますか
水は地球上の生命に不可欠なものです。その水の中で起きているミクロな量子の振る舞いを理解することは、生物学や物理学にとって非常に重要です。今回の発見は、科学の基礎となる仕組みを明らかにするものであり、今後さまざまな分野の研究に役立つと期待されます。
謝辞
本実験は、J-PARCの物質・生命科学実験施設(MLF)のプログラム(課題番号 2022B0087, 2023B0217, 2024A0304)で実施されました。また、文部科学省の科学研究費助成事業(科研費 21K15583, 22K05275)の支援を受けています。
論文の情報
| 論文タイトル | Origin of muon spin relaxation and frequency shift in frozen water explained by spin-dipole quantum coherences |
|---|---|
| 著者 | Amba Datt Pant, Akihiro Koda, Burkhard Geil, Katsuhiko Ishida, Anjan Dahal, Anup Shrestha, Hari Shankar Mallik, Jumpei G. Nakamura, Shoichiro Nishimura, Masatoshi Hiraishi, and Koichiro Shimomura |
| 掲載誌 | Physical Review B(2026年7月7日(現地時間)オンライン公開) |
| DOI | https://doi.org/10.1103/jvjm-bn2q |
| 関連する最近の論文 | 1. Amba Datt Pant, Akihiro Koda, Burkhard Geil, Katsuhiko Ishida, Roshan Pudasaini, Kazuaki Kuwahata, Masanori Tachikawa, Stephen P. Cottrell, Jumpei G. Nakamura, Shoichiro Nishimura, and Koichiro Shimomura, Muon Species in Frozen D2O Observed with Zero-field Muon Spin Precession, Journal of the Physical Society of Japan 95,1 (2026) 014603.
2. Amba Datt Pant, Akihiro Koda, Burkhard Geil, Katsuhiko Ishida, Rajendra Adhikari, Kazuaki Kuwahata, Masanori Tachikawa, and Koichiro Shimomura, Formation and structure of MuOH in ice studied by muon spin rotation, Physical Review B 110, 10 (2024) 104104. |
